第7章 『勇敢な新世界』The Imagineering Story

「ここで重要なのは組織力です。私たちが成し遂げたことはすべてグループ全体の成果であり、私たちの結束した努力の賜物です。…[私たちが成し遂げたこと]は、長年共に働き、創造的なアイデアと技術的ノウハウを融合させてきたスタッフがすでに存在していたからこそ可能になったのです。」—ウォルト・ディズニー

「The Imagineering Story」第7章 [ 要約 ] ウォルト・ディズニーの死後、彼の兄ロイ・O・ディズニーの指導のもと、WEDエンタープライズ(イマジニアリング)はフロリダの湿地帯に壮大なウォルト・ディズニー・ワールドを建設するという困難な任務に取り組みました。その過程で、地下通路(ユーティリドール)や自動ゴミ収集システム(AVAC)などウォルトの夢を形にし、コンピュータ制御のオーディオ・アニマトロニクスという革新的技術を導入しました。1971年10月1日の予定通りの開園は当初の低い来場者数に懸念を抱かせましたが、感謝祭の週末には収容人数に達し、成功が証明されました。この壮大なプロジェクトの完成からわずか1ヶ月後、ロイ・O・ディズニーは亡くなりましたが、彼の献身的な指導なしにはウォルトの夢は実現しなかったでしょう。

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第7章「勇敢な新世界」BRAVE NEW WORLD

I. ウォルトの夢を現実に

– フロリダの地下通路(ユーティリドール)システム:

  – 10エーカーの「見えない都市」が地下に構築され、カラーコード化された壁や電気・配管システムを備える

  – ウォルトの構想した地下サービス通路を実現

  – キャストメンバーが異なるエリア間を移動する際に目立たず、ゴミ収集が見えないように

  – 自動真空ゴミ収集システム(AVAC)を導入

– ロイ・O・ディズニーのリーダーシップ:

  – ウォルト死去後、ロイは「弟の望んだ通りにパークを完成させる」と宣言

  – 引退を控えていたが、プロジェクトのために現役復帰

  – 「ディズニー・ワールド」ではなく「ウォルト・ディズニー・ワールド」と命名するよう主張

– リーディー・クリーク改良地区の設立:

  – 地方自治体の官僚主義に左右されずに開発する権利を獲得

  – ディズニーが独自のインフラ(電力、水道、道路など)を建設・運営できるよう法律制定

  – ジョー・ポッター少将が主導

– 建設の課題:

  – 元は沼地で、「紅茶のような茶色」の湖、蛇や野生動物が生息

  – 地下水位と陥没の問題から、マジックキングダムを地上から16フィート高く建設

  – 1967年5月30日に正式な起工式

II. 次世代

– ディズニーランドの知識継承:

  – 元の知識の多くが記録されておらず、イマジニアの記憶と技術に依存

  – 初期のディズニーランドのアトラクションを再創造・再構想する必要性

– 新世代のイマジニア:

  – キム・アーバイン(旧姓トーマス)が1970年にモデルショップで働き始める

  – 多くのイマジニアの子供たちが加わる(マギー・エリオット、リンジー・パーマーなど)

  – メアリー・ブレアやマーク・デイビスなどのベテランたちが指導

– ホテルの開発:

  – コンテンポラリーリゾートとポリネシアンリゾートの2つの開発

  – ウェルトン・ベケットによるデザイン(WEDではなく)

  – メアリー・ブレアによるコンテンポラリーの4階建てモザイク

III. それはコンピュータで動くのか

– オーディオ・アニマトロニクスの技術革新:

  – デイビッド・スナイダーがミサイルシステムのプログラミングからディズニーへ

  – デジタルアニメーションコントロールシステム(DACS)の開発

  – 従来の機械式システム(カム、テープなど)からコンピュータ制御への移行

– 新しい技術の導入に対する抵抗:

  – アニメーターたちは当初「コンピュータが仕事を奪う」と懸念

  – ビル・ジャスティス、ワシェル・ロジャース、マーク・デイビス、ケン・オブライエンらが新システムに適応

– 新しいアトラクションの開発:

  – 大統領の殿堂(ホール・オブ・プレジデンツ): 36人の大統領のオーディオ・アニマトロニクス

  – アブ・アイワークスによる革新的な大型スクリーン映像技術

  – ブレイン・ギブソンによる大統領の頭部彫刻

  – カントリー・ベア・ジャンボリー: 元々ディズニーのスキーリゾート向けに構想されたもの

  – マーク・デイビスとアル・ベルティーノによるデザイン

IV. 「人々はどこにいるのか?」

– 予定通りの開園:

  – 1971年10月1日金曜日、予定通りにオープン

  – 「ファンタジーランド上空にヘリコプターが飛び、コンクリートを乾かしていた」という切迫した状況

– 初日の低調な入場者数:

  – 予想された50万人ではなく、1万人しか来場せず

  – ウォール街は「ディズニーは失敗した」と判断、株価が9ポイント下落

– 公式な献呈式:

  – 1971年10月25日に実施

  – ロイ・O・ディズニーが「ウォルター・イライアス・ディズニーの哲学と人生への敬意」と述べる

  – 「弟に夢が実現しなかった理由を説明したくなかった」と記者に語る

– 成功の確認と悲しい結末:

  – 11月25日(感謝祭の翌日)、パークは収容人数に達し、朝10時に入場制限

  – 1971年12月20日、ロイ・O・ディズニー死去(78歳)、開園からわずか2ヶ月後

この章から読み取れる重要なポイント:

1. ビジョンの実現と継承: ウォルト・ディズニーの死後、彼の兄ロイは自分の引退計画を脇に置き、弟の夢を実現させる決意をした。「ウォルト・ディズニー・ワールド」という名称へのこだわりに象徴されるように、ロイはウォルトの遺産を守り、継承することに全力を注いだ。

2. 技術革新とその受容: コンピュータ制御のオーディオ・アニマトロニクス(DACS)の導入は、古い機械式システムから大きな飛躍だった。この変化に対する当初の抵抗感は、技術革新がもたらす組織的・心理的課題を示している。変化を受け入れ、適応するプロセスは、イマジニアリングの進化において重要な要素となった。

3. 次世代の育成: ベテランイマジニアから新世代への知識と技術の継承が、公式の文書化よりも徒弟制度的な「親から子へ」のモデルで行われた。キム・アーバインなどの若手は、「ディズニーアーティスト」としての訓練を受け、創造的な伝統を維持しながら革新を続けた。

4. インフラ開発の先駆性: リーディー・クリーク改良地区の設立は、民間企業が公共インフラを開発・運営するという革新的なモデルを確立した。地下通路(ユーティリドール)システムや自動ゴミ収集システム(AVAC)など、見えない場所での革新が、ゲスト体験の質を高めることにつながった。

5. 困難な状況での粘り強さ: 開園初日の低調な入場者数にもかかわらず、ディズニーチームは計画通り進め、最終的に成功を収めた。建設請負業者との契約解除や、プロジェクトの最後の数ヶ月間ロイが現場オフィスで過ごしたことなど、困難を乗り越えるための決断力と粘り強さが示されている。​​​​​​​​​​​​​​​​

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