「70年代に育った僕にとって、ディズニーを好きになるなんて、ちょっとダサいことだった。…アニメーション映画を制作し、素晴らしいエンターテイメントパークを運営するエンターテイメント会社が、未来にどのような影響を与え、世界に影響を与えることができるというのだろうか?」—トニー・バクスター
「The Imagineering Story」第8章 [ 要約 ] :1970年代、ディズニーランドは若者の興味を引き付けるという課題に直面していました。当時、競合パークがスリルライドを次々と導入する中、ディズニーランドはより家族向けの「クール」ではない場所と見なされつつありました。この状況に対応するため、ディズニーは二つの重要な革新を導入しました。一つは1972年に始まった「メインストリート・エレクトリカル・パレード」で、夜間の集客を劇的に向上させました。もう一つは、ジョン・ヘンチが設計を主導した「スペース・マウンテン」で、暗闇の中で体験する革新的なジェットコースターとして1975年にウォルト・ディズニー・ワールドで、続いて1977年にディズニーランドでオープンしました。この二つの革新はディズニーパークの新たな時代を象徴するものとなりました。
第8章「時代の兆し」SIGN OF THE TIMES
I. 夜を照らす
– ディズニーランドのパレードの歴史:
– 開園初日の1955年7月17日から始まるパレードの伝統
– 1957年の「クリスマス・イン・メニー・ランズ・パレード」が定期的パレードの先駆けに
– パレードはウォルトの理念である「生きた場所」としてのパークを表現する手段
– エレクトリカル・ウォーター・ページェントの成功:
– 1971年10月24日、ウォルト・ディズニー・ワールドの七つの海ラグーンで初開催
– 14の水上フロートに25フィートの高さのライトスクリーンを設置
– 海の生き物をテーマにした電飾表現と電子音楽
– メインストリート・エレクトリカル・パレードの開発:
– カード・ウォーカー社長が夜間の集客増加を求める
– ロナルド・ミジカーとボブ・ジャニが「メインストリートを舞台に」というコンセプトを提案
– 50万個のイタリア製ミニチュア電球を使用した立体的フロート
– コンピューター制御システムと「バロック・ホーダウン」の音楽
– 1972年6月17日のデビューと成功:
– ディズニーランドの夜間の集客が大幅に増加
– 1977年の改良版以降、19年間続き、推定7,500万人が観覧
– ティーンエイジャーへのアピール不足:
– スイングバンドやポップ音楽などの音楽イベントも若者には魅力的でなかった
– マジック・マウンテン(1971年オープン)やノッツ・ベリー・ファームなど競合パークがスリルライドを次々と導入
– ディズニーランドのスリルライドはマッターホルン・ボブスレーのみで、若者の流出が課題に
II. 最後のフロンティア
– スペース・マウンテンの構想:
– 1960年代初頭、ディック・ヌニスが第二のスリルライド建設を提案
– 当初は1967年の未来の国のリニューアルの一部として計画されたが実現せず
– ジョン・ヘンチのデザイン:
– 「封筒の裏に描いた最初のスケッチ」から始まったアイデア
– 「軟骨状の」垂直パーツが特徴的な白い円錐形の建物
– ヘンチはWEDの創造的リーダーの一人で「ウォルトのように」尊敬されていた
– スペース・マウンテンの設計哲学:
– 「制御された脅威」を体験して「勝利した」という感覚を提供
– 「アドレナリンが増加し、何かに挑戦して勝ったと感じる」体験
– 技術的進歩:
– 当初はコンピュータ技術の限界で延期
– アポロ計画(1969年)とスペースシャトル計画(1972年)の影響
– ビル・ワトキンスがディズニーランド版のトラックをデザイン、ジョージ・マギニスがフロリダ版に適応
– デイビッド・スナイダーによる世界初のコンピュータ制御システムの開発
– 開園と成功:
– 1975年1月15日、ウォルト・ディズニー・ワールドでオープン(予算約2,000万ドル、半額をRCAが提供)
– 1977年5月27日、ディズニーランドでオープン
– 即座に最も人気のあるアトラクションの一つに
– ヘンチ自身も晩年まで愛用し、「この魔法は本当に効くんだ」と感動していた
この章から読み取れる重要なポイント:
1. 市場変化への対応: ディズニーは1970年代に若者市場の変化(より刺激的なスリルライド志向)に対応する必要に迫られた。これは単なるビジネス上の課題ではなく、パークの基本理念をどう進化させるかという創造的挑戦でもあった。
2. 技術革新と芸術性の融合: メインストリート・エレクトリカル・パレードとスペース・マウンテンは、両方とも当時の最新技術(コンピュータ制御、大量の電飾、暗闇での乗り物制御など)と芸術的なビジョンを融合させた。イマジニアリングの強みは、技術をストーリーテリングの手段として活用する能力にあった。
3. 継続と変化のバランス: ジョン・ヘンチが述べたように、ディズニーパークは「生きていて、常に進化し変化する」ものであるという考え方。ウォルト・ディズニーの遺産を守りながらも、時代とともに革新し続ける必要性がこの時期に明確になった。
4. 体験デザインの哲学: スペース・マウンテンは単なるスリルライドではなく、「制御された脅威」という心理的要素を含む総合的な体験としてデザインされた。これはディズニーの体験デザイン哲学を示す重要な例で、ゲストに「挑戦して勝った」という感覚を提供することを意図していた。
5. リーダーシップの継承: ウォルト・ディズニー亡き後、ジョン・ヘンチのようなクリエイティブリーダーが彼のビジョンを受け継ぎ発展させた。「ウォルトの代わりではないが、同じ方向性を本能的に取っている」というヘンチの言葉は、この時期のイマジニアリングの姿勢を表している。