第13章 『ハリウッドに万歳』The Imagineering Story

「The Imagineering Story」第13章 [ 要約 ] 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、マイケル・アイズナーの指揮のもと、ウォルト・ディズニー・カンパニーはウォルト・ディズニー・ワールドを大幅に拡張しました。EPCOTセンターに新しいパビリオンが追加され、著名建築家によるホテル開発が進み、そして何よりもハリウッドをテーマにした第3のテーマパーク「ディズニーMGMスタジオ」が開園しました。これらの拡張と1990年に発表された「ディズニー・デケード」計画は、イマジニアリングの創造力と企業の野心を示す重要な転換点となりました。

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第13章「ハリウッドに万歳」
HOORAY FOR HOLLYWOOD

I. スターたちを輝かせる

– 1988年1月、グーフィーがEPCOTセンターで「ワンダーズ・オブ・ライフ」パビリオンの起工式を行った

– アイズナーはEPCOTにディズニーキャラクターを導入し、子供たちを引き付ける戦略を実施

– 「ワンダーズ・オブ・ライフ」パビリオンは人体、健康、栄養をテーマに1989年10月にオープン

  – 「ボディ・ウォーズ」(スター・ツアーズのような体内シミュレーターライド)

  – 「クラニウム・コマンド」(神経系統をテーマにしたアトラクション)

  – マーティン・ショート主演の映画「ザ・メイキング・オブ・ミー」

– EPCOTは1982年の開園以降も成長を続け、1984年にモロッコ館、1988年にノルウェー館が追加

– 1986年には「ザ・リビング・シーズ」が開園し、世界最大の人工海水水槽を展示

– アイズナーは、ディズニーの敷地外ホテルを管理するために「ディズニー・デベロップメント・カンパニー」を設立

– 著名建築家マイケル・グレイブスとロバート・ヴェンチューリがEPCOT近くのホテル設計コンペに参加

– グレイブスのデザインが採用され、「スワン・アンド・ドルフィン」ホテルとして1990年にオープン

II. ディズニー・スタジオ・イースト

– アイズナーはCEO就任直後からディズニーのスタジオツアーを構想

– 当初はEPCOTのエンターテイメント産業パビリオンとして計画されたが、徐々に単独のテーマパークへと発展

– 1985年2月、フロリダにスタジオツアーパークを建設する計画を発表

– ディズニーはMGMと提携し、「ディズニーMGMスタジオ」と命名

  – MGMの膨大な映画作品(『オズの魔法使い』や『雨に唄えば』など)の使用権を獲得

– イマジニアたちはハリウッドの黄金時代を再現する機会を得た

– このプロジェクトは稼働中のバックロットとサウンドステージを含む予定で、ディズニーの映画製作事業の拡大にも貢献するはずだった

III. 月を照らす

– イマジニアたちはアイズナーとウェルズの信頼を得て、エネルギッシュに活動

– 当初、ディズニーMGMスタジオは半日パークとして構想されたが、徐々に規模を拡大

– 予算は厳しく、EPCOTよりも一人当たりの投資額は少なかった

– パークの中心的アトラクションは「グレート・ムービー・ライド」

  – グローマンズ・チャイニーズ・シアターのレプリカ内に設置

  – 20分以上続く没入型ライドで、オーディオアニマトロニクスや映画のセットを再現

  – 『メリー・ポピンズ』、『オズの魔法使い』、『カサブランカ』、『エイリアン』などの名場面を再現

– 「バックステージ・スタジオ・ツアー」は製作現場や屋外セットをトラムで巡るツアー

  – 「カタストロフィ・キャニオン」での特殊効果ショー

  – 歩行ツアーでの映画製作過程の解説

– 有名俳優たちが出演する短編映画が製作過程の解説用に制作された

– 「マジック・オブ・ディズニー・アニメーション」ツアーでは実際のアニメーション制作を見学可能

– 1989年5月のオープン時、アイズナーはこのパークを「存在したことのないハリウッド、そして常に存在し続けるハリウッド」と表現

– オープン日には数千人のメディア関係者と多くのセレブリティが参加

– 予想を上回る人気で、開園後数時間で定員に達し、開園から6ヶ月で500万人の追加入場者を記録

– すぐに拡張計画が立てられ、「サンセット・ブルバード」の建設などが構想された

IV. ディズニー・デケード

– 1990年1月、アイズナーは「ディズニー・デケード」を発表

– 少なくとも29の新プロジェクトを含む10年計画

  – ディズニーMGMスタジオの新アトラクション

  – フロリダでの第4、第5のテーマパーク

  – 新しいホテル、ショー、改装プロジェクトなど

– カリフォルニアではディズニーランドの大規模拡張とロングビーチまたはアナハイムでの新テーマパーク「ポート・ディズニー」を発表

– イマジニアリングのスタッフは、「ディズニー・デケード」の終わりまでに1980年代初頭の10倍の3,000人まで増加予定

– 1985年12月に予備合意、1987年3月に最終合意されたユーロディズニーランド(パリ郊外)も建設が進行中

この章から読み取れる重要なポイント:

1. 会社のビジョンの拡大: アイズナーの指導下で、ディズニーはテーマパーク事業を積極的に拡大し、新しい方向性(映画産業をテーマにしたパーク、著名建築家とのコラボレーション)に踏み出した。

2. イマジニアリングの変革: イマジニアたちはディズニー以外のIPを扱う経験を積み、より多様なストーリーテリングの可能性を探求した。『スター・ウォーズ』と『キャプテンEO』の成功は、外部IPを取り入れるパラダイムシフトの先駆けとなった。

3. 現実と夢のバランス: ディズニーMGMスタジオは実際の映画製作施設と観光テーマパークの融合を目指したが、現実の製作拠点としては期待通りに機能せず、より「テーマ化」された経験へと進化した。

4. 「ディズニー・デケード」の大胆さ: アイズナーの10年計画は、前例のない規模での公約であり、イマジニアリングへの深い信頼の表れだった。すべての計画が実現したわけではないが、その野心的なビジョンはディズニーの新たな時代を象徴した。

5. 世界展開の加速: この時期は、ディズニーがアメリカを超えて世界に拡大する重要な時期で、ユーロディズニーランド(後のディズニーランド・パリ)の開発は同社の国際戦略の中心的な要素だった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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