第22章 『公式の改変』The Imagineering Story

“人を欺くことはできない……。 彼らは、物事が手抜きにされていたり、細部にまで気を配ってクオリティを高めていないことを見抜くことができるんだ。 ウォルトはよくこう言っていた。 そして彼らは、私たちがもうそれほどいい仕事をしていないことを知り始めたんだと思う」。 -キム・アーバイン

「The Imagineering Story」第22章 [ 要約 ] 本章では、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー(DCA)の開発と開園後の苦戦について描かれています。マイケル・アイズナーとポール・プレスラーの指揮のもと、厳しい予算制約の中で開発されたDCAは、同時期に開発されていた豪華な東京ディズニーシーとは対照的な「コスト削減型」パークとなりました。2001年2月に開園したDCAは、一部のアトラクション(「ソアリン・オーバー・カリフォルニア」など)は成功したものの、全体としては訪問者数が予想を下回り、ディズニーの魔法が欠けているという批判を受けることになります。この章は、財務的制約と創造性のバランスをとる難しさ、そして「質の高い体験」というディズニーの核心的価値の重要性を浮き彫りにしています。

目次をチェック

第22章「公式の改変」
TAMPERING WITH THE FORMULA

I. ポール・プレスラーの登場と経営方針の変化

   – 1994年11月、消費者製品部門出身のポール・プレスラーがディズニーランドの社長に就任

   – メインストリートUSAのウィンドウディスプレイをめぐってイマジニアとの最初の衝突が起きる

   – プレスラーは自身の「世界クラスのリーダー」を登用し、経験豊富なスタッフを置き換える

   – キム・アーヴィンは「彼は商品販売の背景出身で、それが彼のすることすべての焦点になった」と述懐

II. WESTCOT中止とカリフォルニア・アドベンチャーの誕生

   – 当初計画されていた30億ドルのWESTCOTが予算上の理由で中止される

   – コロラド州アスペンでの3日間のブレインストーミングセッションで、カリフォルニアをテーマにしたパークのアイデアが浮上

   – バリー・ブレイバーマンが「カリフォルニアの夢」をテーマにした企画を提案、アイズナーに採用される

   – 1996年7月に正式発表、5年という短期間でオープンを目指す開発計画がスタート

III. 東京ディズニーシーとの対照的な開発環境

   – 両パークは同時期に開発されるも、資金状況は対照的

   – ディズニーシーはオリエンタルランドカンパニーの潤沢な資金で開発

   – DCAは予算削減の中、既存アトラクションの再利用や低コストの展示に依存

   – マーティ・スカラーは「昼食を一緒にとることさえ難しいほどの格差があった」と回想

IV. パークのデザインと主要アトラクション

   – 入口には巨大な「CALIFORNIA」の文字とゴールデンゲートブリッジの縮小版

   – ハリウッド・ピクチャーズ・バックロット、ゴールデン・ステート、パラダイス・ピアの3つのランド

   – 「ソアリン・オーバー・カリフォルニア」:革新的な吊り下げ式シミュレーターで大成功

   – 「カリフォルニア・スクリーミン」:磁力発射システムを使った最新式コースター

   – 「スーパースター・リモ」:急遽コンセプト変更を余儀なくされ、大失敗に終わったダークライド

V. オープンと批判

   – 2001年2月8日の開園式はディズニーランドに比べて控えめな催し

   – 当初の入場料はディズニーランドと同額(大人$43、子供$33)だったが、アトラクション数は3分の1

   – 予想していた年間700万人の来場者数に対し、実際は500万人にとどまる

   – ジョン・ラセターは「ディズニーらしさが欠けていた」と批判

   – ジョン・ヘンチは「以前の駐車場の方が良かった」と皮肉る

6. 問題への対応と改善の取り組み

   – 開園後すぐに南カリフォルニア住民向けの割引価格を導入

   – メインストリート・エレクトリカル・パレードの復活、ディズニーキャラクターの導入

   – 2002年10月、子供向けエリア「ア・バグズ・ランド」をオープン

   – ジョン・ラセターとキャシー・マンガムが「没入感」を重視したデザインを実現

   – 失敗した「スーパースター・リモ」を「モンスターズ・インク」のアトラクションに改装

この章から読み取れる重要なポイント:

1. 財務的制約が創造性を高める場合もあるが、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの場合、予算削減が本質的な「ディズニーらしさ」や品質を損なってしまった

2. 東京ディズニーシーとの同時開発は、同じイマジニアリングでも予算条件によって成果が大きく異なることを浮き彫りにした

3. ディズニーらしい「没入感」や「場所作り」の欠如が、来場者の不満の主な原因となった

4. ポール・プレスラーのもとでの組織体制変更(イマジニアリングがパーク運営部門の下に配置)は、創造性よりも事業性を優先する風土を生み出した

5. 「安かろう悪かろう」はディズニーのブランド価値と相容れないことが証明された(キム・アーヴィン:「人々をだますことはできない。ウォルトはいつも『良い仕事をすれば、人々はそれに対価を払う』と言っていた」)

6. 「ア・バグズ・ランド」の追加は、家族連れという核心的な顧客層を軽視していたという問題を認め、ピクサー作品の活用という将来の方向性を示すものだった​​​​​​​​​​​​​​​​

“WESTCOT”とはプロジェクト

WESTCOTはプロジェクト名です。これはエプコット(EPCOT)の西海岸版として計画されていたもので、「West Coast EPCOT」を略した名称。

カリフォルニア州アナハイムのディズニーランドに隣接する第2のテーマパークとして、1990年代前半に計画されていました。約30億ドルの予算で、未来都市と世界の文化をテーマにしたパビリオンを特徴とする壮大なパークになる予定でした。

計画には以下のようなものが含まれていました:

– 300フィート(約91メートル)の高さの巨大な球体「スピアカル」(フロリダのスペースシップ・アースのような象徴的建造物)

– 欧州、アジア、アメリカ、アフリカなどの世界各地のパビリオン

– 未来都市エリア

– 新しいホテルやダウンタウン地区

しかし、建設コストの高さや地域のインフラ整備への懸念から、1995年に計画は中止されました。その後、よりコスト効率の良い代替案としてディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーのコンセプトが開発されることになりました。​​​​​​​​​​​​​​​​

WESTCOTはディズニーの歴史の中でも特に興味深い「幻のプロジェクト」の一つ。もし実現していれば、フロリダのエプコットのような壮大で教育的な要素を持つ西海岸版のパークが誕生していたかもしれません。

代わりに開発されたディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーは当初は批判もありましたが、その後いくつかの大規模なリニューアル(特にカーズランドの追加など)を経て、現在ではより評価の高いパークへと進化しています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次をチェック