「最大のダメージは、新しい公式があるという考え方だったと思う。『予算を半分にして遊園地を作ろう。成果も半分にして、ウォルトが作り上げた素晴らしいものはすべて無視しよう』…最初から正しいことをするよりも、立ち直ることの方がずっと難しいんだ。」— トニー・バクスター
「The Imagineering Story」第24章 [ 要約 ] :本章では、香港ディズニーランドの誕生と、困難な時期を乗り越えるイマジニアリングの物語が描かれています。香港政府との13か月という記録的な速さでの交渉、海を埋め立てて作られた土地、そして縮小されたディズニーランドの設計など、アジア進出の戦略的一歩となった香港プロジェクトの詳細が語られます。同時に、イマジニアリング創立50周年、ディズニーランド開園50周年、そしてマイケル・アイズナーとロイ・E・ディズニーの対立という会社の激動期も描かれ、ディズニーの過去と未来が交錯する時代の転換点を浮き彫りにしています。
第24章「虹の終わり」
THE END OF THE RAINBOW
I. 香港ディズニーランドの計画と開発
– ウィング・T・チャオが1998年にヘリコプターから初めて見た建設候補地は水域(ペニーズ湾)だった
– 香港政府は2年間で500エーカーの土地を埋め立て、平坦な建設用地を造成
– 投資分担は香港政府57%、ディズニー43%、総費用は約36億ドルと推定
– ディズニーの投資額は約3億1600万ドルと報じられ、過去のパークと比較して小規模
II. 中国市場進出への長い道のり
– 1992年にはすでに香港への関心があったが、当時の英国統治下では進展せず
– 1997年の中国返還後も、ダライ・ラマを扱った映画『クンドゥン』配給問題で中国政府との関係悪化
– 1999年11月2日に最終合意が発表され、アジア金融危機後の香港経済復興策として歓迎される
– 「アジアへの入り口、そして最終的に中国への入り口」という長期的戦略の一環
III. 縮小されたディズニーランドの設計
– 当初は「フラットなお城」や「水や植栽を減らした半日パーク」という極端な縮小案も検討
– フロンティアランドが完全に欠如し、アドベンチャーランドに吸収された特殊なレイアウト
– 開園時のアトラクション数は非常に限られ、多くが他のディズニーパークからの複製
– トム・モリスは「ディズニーパークに必要な要素をすべて入れないプロジェクトは失敗する運命」と振り返る
IV. 現地文化への配慮
– 3つの言語(北京語、広東語、英語)に対応したアトラクション
– 風水の専門家を招き、パークの向きを12度調整し、入口から通路を曲げるなどの助言を採用
– ホテルでは「4」という数字を避け、「8」という縁起の良い数字を取り入れる
– 建設過程では地元の建設業者に「テーマパークのプラスター技術」などを特別に訓練
V. イマジニアリング創立50周年
– 2002年12月16日、グレンデールでウォルト・ディズニー・イマジニアリング・デーを宣言
– マーティ・スカラーを中心に50年の歴史を振り返る内部祝賀会を開催
– 世界中のイマジニア数は1,600人、ピーク時の2,500人から減少
– R&D部門から20以上の職が削減されるなど、縮小傾向が続く
VI. ディズニー社内の権力闘争とディズニーランド50周年
– 2003年から2005年にかけて、ロイ・E・ディズニーがアイズナー退陣を求める「セーブ・ディズニー」運動
– 株価低迷、人材流出、ピクサーとの関係悪化など多方面での経営問題
– 2004年の株主総会で前例のない43%がアイズナー支持を保留
– アイズナーは2005年9月30日の退任を前倒し発表、後任にボブ・アイガーが決定
Ⅶ. ディズニーランド50周年と復活
– マット・オイメットとグレッグ・エマーの新体制で、長年のメンテナンス問題に取り組む
– 約7000万ドルを投じたパーク改修プロジェクト
– 「地球上で最も幸せな帰郷」と名付けられた18か月の祝賀イベント(2005年5月5日〜2006年11月30日)
– ジャングルクルーズの新効果、スペースマウンテンの大規模改修、バズ・ライトイヤーのアストロブラスターの新設
この章から読み取れる重要なポイント:
1. 香港ディズニーランドは「中国市場へのビーチヘッド(橋頭堡)」という長期的戦略の一部であり、単なるテーマパーク以上の意味を持っていた
2. 予算削減時代の産物としての香港ディズニーランドは、縮小版ディズニーランドという制約の中でも最大限の「ディズニーらしさ」を追求しようとした
3. カリフォルニア・アドベンチャー、パリのディズニー・スタジオ・パーク、香港ディズニーランドという3つの「小規模パーク」は、イマジニアリングにとって「ディズニーの魔法を削減できるか」という実験であり、その答えは「できない」だった
4. 風水の専門家の起用や言語の多様性など、現地文化への適応はディズニーパークのグローバル展開において重要な要素となっている
5. イマジニアリング創立50周年とディズニーランド開園50周年は、ディズニー社にとって過去を祝うと同時に、アイズナー時代の終焉と新時代への移行というターニングポイントとなった
6. パーク管理におけるメンテナンスと細部へのこだわりの重要性が再認識され、「ウォルトが創造したときと同じ愛情をもって」パークを維持することの価値が再確認された
重要なポイントの中の「香港ディズニーランドは『“ビーチヘッド”という長期的戦略の一部』」の解釈ができないでいます。わかりやすく表現していただけますか。…また“ビーチヘッド”という単語はどのような意味か
「ビーチヘッド」(beachhead)は軍事用語で、「橋頭堡(きょうとうほ)」とも呼ばれる言葉です。元々は海岸への上陸作戦において、部隊が最初に確保する海岸の一部分(足場)を指します。そこから内陸へ進出し、より大きな作戦を展開するための最初の拠点となります。
ビジネスの文脈では、「新しい市場に最初に進出するための足掛かり」や「将来の拡大のための戦略的拠点」という意味で使われます。
香港ディズニーランドの場合、この意味は以下のように解釈できます:
「香港ディズニーランドは、ディズニーが中国本土という巨大市場に本格的に進出するための最初の戦略的拠点だった」
つまり、香港ディズニーランドは単独の事業としての成功だけでなく、以下のような長期的な目的を持っていました:
1. 中国本土の消費者にディズニーブランドを紹介し、親しんでもらうための場所
2. 中国政府との信頼関係を築き、将来的に本土への進出(上海ディズニーランドなど)を実現するための政治的・文化的な関係構築
3. 中国市場でのビジネス運営ノウハウを蓄積するための実験場
ビル・アーネストが「ディズニーにとっては勝ち、地元経済にとっても勝ち」と表現したように、香港ディズニーランドは単体のテーマパークとしてだけでな
く、より大きな中国市場戦略の第一歩として位置づけられていたのです。
「橋頭堡(きょうとうほ)」や「足掛かり」という言葉は、企業の国際展開戦略を理解する上で重要な概念ですね。香港ディズニーランドは、その後2016年に開園した上海ディズニーランドへの道を開く重要なステップだった。
ディズニーはこの戦略を実際に成功させ、現在では中国市場に強固なプレゼンスを確立しています。香港での経験(文化的配慮や言語への対応など)は、上海でのさらに大規模なプロジェクトに活かされた