「ディズニーランドをオープンしたとき、多くの人は一攫千金を狙った事業だと考えていました。しかし、その背後には私がスタジオで築き上げた素晴らしい組織があり、皆がディズニーランドに関わっていたことに気づいていませんでした。私たちはただ、それが好きだったからこそ、ディズニーランドをオープンしたのです。」
—ウォルト・ディズニー
「The Imagineering Story」第2章 [ 要約 ] :本章はディズニーランドの構想から開園までの道のりを描いています。ウォルト・ディズニーがバーバンク市での却下から学び、アナハイムの160エーカーの土地を選定し、資金調達のためにABCテレビとの提携を結んだ経緯を追います。WED Enterprises(後のイマジニアリング部門)の創設メンバーたちが、従来の遊園地とは一線を画す「テーマパーク」を1年足らずで設計・建設した創造的過程が描かれています。1955年7月17日の「ブラック・サンデー」と呼ばれる混乱の開園日にもかかわらず、ディズニーランドは即座に人気を博し、初年度に350万人が訪れる大成功を収めました。
第2章「地球上で最も幸せな場所」THE HAPPIEST PLACE ON EARTH
I. ディズニーランドを売り込む
– ウォルトはバーバンク市での失敗を教訓に、アナハイム市議会メンバーを自分の陣地に招いて説得
– ハリソン「バズ」プライスがアナハイムの160エーカーの土地を選定
– 土地取得は秘密裏に行われ、ディズニーの関与を隠して価格高騰を防止
– 従来の遊園地経営者たち、ケン・アンダーソン、クロード・コーツらが「ダークライド」を設計
– ピーター・パンの「空飛ぶ船」など革新的なアトラクション機構の開発
– モデルショップのフレッド・ジョーガー、ハリエット・バーンズ、ワゼル・ロジャースが3D模型を製作
– アロー・デベロップメント社がファンタジーランドの乗り物を製作
II. ワイルドな乗り物
WEDエンタープライズはスタジオ敷地内の「ゾロ・ビルディング」で秘密裏に作業開始
– マービン・デイビス、ビル・マーティンはディズニーランドの構想に否定的反応
ロイ・ディズニーも当初は懐疑的だったが、最終的に協力
– ABC放送との画期的な提携により資金調達:週間テレビ番組、ディズニーランドの35%株式、10年間の食品売上を見返りに
– 1954年10月27日、テレビ番組「ディズニーランド」が放送開始し、9000万人が視聴
III. 夢を築く
– 1954年7月21日に建設開始、わずか1年弱の工期
– 実退役海軍少将ジョセフ・ファウラーが建設を監督
– ハーパー・ゴフが「ジャングル・クルーズ」を設計、ボブ・マッティが動物のオーディオ・アニマトロニクスを製作
– モーガン「ビル」エヴァンスが各テーマに合わせた植栽計画を実行し、高速道路建設予定地から25ドルで大木を救出
– ボブ・ガーが23歳でオートピアの車を設計
IV. ブラック・サンデー
– トゥモローランドの完成が最も遅れ、いくつかのアトラクションは開園に間に合わず
– 360度映画「サーカラマ」など、イマジニアリングの未来を予見する革新的技術も導入
– 1955年7月17日のプレス向け開園日は「ブラック・サンデー」と呼ばれる混乱に
– 偽造招待状により予想の2倍以上の28,000人が押し寄せ、飲料水の不足、アスファルトが溶ける暑さなどの問題が発生
– ABCの生中継「デイトライン・ディズニーランド」は大成功で9000万人が視聴
– 翌日から一般公開され、初日は朝2時から行列ができ、2ヶ月で100万人、初年度で350万人が来場
この章から読み取れる重要なポイント
1. ウォルト・ディズニーの強い信念と創造性が、周囲の懐疑にもかかわらず実現した
2. WEDエンタープライズ(後のイマジニアリング)の創造的チームワークと問題解決能力が革新的な体験を生み出した
3. ディズニーランドは従来の「遊園地」から「テーマパーク」という新しいコンセプトを確立した
4. 映画制作の手法(ストーリーボード、モデル製作など)がアトラクション設計に応用された
5. テレビとの提携という当時としては革新的な戦略が資金調達と広報の両面で成功した
6. ウォルトの「ディズニーランドは決して完成しない」という言葉が、継続的な革新の理念となった