「私たち全員の心は沈んだ。その時、ウォルトが残してくれたエネルギーはもう私たちには残っていないと悟った。誰かが、これから進むべき方向を見つけなければならないのだ。」 – ボブ・ガー
「The Imagineering Story」第6章 [ 要約 ] :1966年12月のウォルト・ディズニーの死は、イマジニアリングに大きな衝撃を与えました。しかし、彼の死後も、ウォルトが構想段階から深く関わっていた重要なプロジェクトは継続されました。「パイレーツ・オブ・カリビアン」は、クロード・コーツとマーク・デイビスの異なる才能が融合した、かつてない規模と複雑さを持つオーディオ・アニマトロニクス・アトラクションとして1967年3月に開幕。トゥモローランドの大規模リニューアルも1967年に完成し、サークル・ビジョン360やピープルムーバーなどの革新が導入されました。同時期に進行していた「ホーンテッド・マンション」は、イェール・グレイシーとローリー・クランプの特殊効果とイリュージョンの才能を活かした魅力的なアトラクションとして結実。これらの偉大なプロジェクトはいずれもウォルトの創造的ビジョンの遺産でありながら、彼のいない時代に向けてイマジニアリングが進むべき道筋を示すものとなりました。
第6章「ウォルトならどうする?」WHAT WOULD WALT DO ?
I. ウォルト・ディズニーの退場
– 1964年、ウォルト・ディズニーはテレビ番組撮影のためにWEDの工房を公開
– ジュリー・ライムと一緒に「パイレーツ・オブ・カリビアン」(当時は「ブルー・バイユー」と呼ばれていた)のモデルを紹介
– ブレイン・ギブソンやクロード・コーツなどのイマジニアたちの仕事ぶりを披露
– 1965年2月、WEDエンタープライズが正式にウォルト・ディズニー・プロダクションズの一部になる
– ウォルトがWEDの株式を売却し、公開企業に正式な管理権を移譲
– メル・メルトンが新社長に就任、カール・ボンジルノが財務を担当、ディック・アーバインがクリエイティブ部門の責任者に
– ウォルト・ディズニーの死(1966年12月)とその影響
– ボンジルノがWEDスタッフに伝える任務を負う:「皆、驚きのあまり言葉を失い、涙があふれた」
– ロイ・ディズニーは財務部門に対し、「クリエイティブな人々が新しいリーダーを見つけるまで彼らに優しくするように」と指示
– リチャード・シャーマン:「私たちは自分自身を奮い立たせなければならなかった」
– マーティ・スカラーによる「青い本」の編纂(1967年9月21日)
– 「ウォルト・ディズニー・ワールドの背景と哲学」と題された冊子
– ウォルトの言葉や考え方を集めたガイドブック
– 「人々を幸せにし、魔法をもたらし、新しいものをもたらし、楽しみをもたらす」という倫理観を伝えることが目的
II. パイレーツの登場
– 「パイレーツ・オブ・カリビアン」の開発
– 当初は歩行型アトラクションとして構想されたが、「イッツ・ア・スモールワールド」の成功により、ボートライドに変更
– クロード・コーツが全体のレイアウトと背景を担当、マーク・デイビスがキャラクター設計を担当
– ブレイン・ギブソンが彫刻、アリス・デイビスが衣装設計を担当
– 技術的革新と特殊効果
– アブ・アイワークスが炎の模擬効果を開発
– イェール・グレイシーが村が燃えているように見せるマイラーフィルムの特殊効果を考案
– ハビエル(X)・アテンシオが初めて脚本とテーマソング「ヨーホー、海賊の生活」を作詞
– 1966年7月24日にニューオーリンズ・スクエアがオープン(ウォルトが参加した最後のパーク献堂式)
– 1967年3月18日に「パイレーツ・オブ・カリビアン」がデビュー
– マーティ・スカラー:「ディズニーがやることの全体的なダイナミクスを変え、他の全ての人が達成しようとするものになった」
– ボブ・ガー:「アトラクションをデザインし操作する方法の最高峰」
III. 動き出すトゥモローランド
– 1967年のトゥモローランド全面リニューアル(「動く世界」をテーマに)
– 予算は2,200万ドル(1955年の全パーク建設費の5倍以上)
– サーカラマからサークル・ビジョン360への進化
– アブとドン・アイワークスによる映写システムの改良
– フィルムの寿命を1,000回から10,000〜15,000回に延長
– 新しい35mmバージョンの「アメリカ・ザ・ビューティフル」映像を導入
– 「内部空間アドベンチャー」(モンサント提供)の追加
– 原子レベルに縮小されるという設定のダークライド
– シャーマン兄弟の楽曲「分子からの奇跡」とポール・フリースのナレーション
– ピープルムーバーの導入(グッドイヤー提供)
– 新しいオムニムーバーライドシステムの開発
– フォードの「マジック・スカイウェイ」技術を基に開発
– 乗り物が連続的に動き、ターンテーブルなしで向きを変えられる
IV. 壁一面の蜘蛛の巣
– 「ホーンテッド・マンション」の開発
– 1963年に建物は完成していたが、ニューヨーク万博などの他のプロジェクトのために中断
– ハーパー・ゴフの最初のスケッチは荒廃した屋敷だったが、ウォルトは美しい建物を望んだ
– イェール・グレイシーとローリー・クランプの共同作業
– 一年間、幽霊の本を読み、映画を見ることに専念
– クランプは「ウィアードの博物館」を提案、奇妙で魔法的な雰囲気を想定
– ウォルトの死後、クランプはプロジェクトから離れる
– マダム・レオタの誕生
– モデルショップのリオタ・トゥームズ(キム・アーバインの母)が顔の型取りに協力
– ブレイン・ギブソンが型を取り、アブ・アイワークスの映写技術で動くように
– 世界初の公開プロジェクションマッピング技術として知られる
– 数々の革新的イリュージョン
– 「伸びる部屋」(実際はエレベーター)によるキューラインの演出
– 「ペッパーズ・ゴースト」技術を使ったボールルームのイリュージョン
– ドン・アイワークスによる墓石の胸像への映像投影
– ポール・フリースの「ゴースト・ホスト」ナレーションとXアテンシオの作詞による「陰気なグリニング・ゴースト」の主題歌
この章から読み取れる重要なポイント:
1. ウォルトの不在と組織の適応: ウォルト・ディズニーの死は大きな打撃でしたが、組織は「ウォルトならどうするか?」という問いを指針にしながら、彼のビジョンを実現する方法を見いだしました。スカラーの「青い本」はウォルトの哲学を保存・伝達する重要な取り組みであり、イマジニアたちが自分たちでクリエイティブな意思決定を行うよう促しました。
2. コラボレーション文化の深化: 「パイレーツ・オブ・カリビアン」と「ホーンテッド・マンション」の開発は、異なる才能や視点の融合がいかに魅力的な体験を生み出すかを示しています。コーツとデイビスの異なるスタイル(ムードvs.キャラクター)、グレイシーとクランプの幻想とイリュージョン、アイワークスの技術革新など、イマジニアリングは個人の才能の集合体以上のものになっていました。
3. 技術的イノベーション: この時期は技術革新の重要な節目となりました。サークル・ビジョン360の改良、オムニムーバーライドシステムの開発、「ペッパーズ・ゴースト」技術の大規模応用、プロジェクションマッピングの初期形態など、テクノロジーと芸術の融合がディズニーの体験をより豊かで没入感のあるものにしました。
4. 物語の重要性と新時代のシグネチャーアトラクション: これらのアトラクションは、すべてが強力な物語に基づいていました。ウォルトの不在にもかかわらず、イマジニアたちはストーリーテリングの原則を守り、「パイレーツ」と「ホーンテッド・マンション」は今もディズニーパークの代表的アトラクションとして愛され続けています。
5. モデルショップの職人気質: キム・アーバインの母リオタ・トゥームズのエピソードは、モデルショップの協力的で職人気質の文化を示しています。様々な才能を持つアーティストが開放的な空間で協力し合い、アイデアを交換し、問題を解決する環境は、イマジニアリングの創造的な強みの基盤となりました。